僕はイエスの聖書への見方、理解の仕方が非常に興味深いと思います。福音書を見て、イエスは何かみ言葉について語る箇所を探し始めました。その箇所の大部分が下記にあります。イエス自身がみ言葉についてどのように話されたかを見ると、いろいろ教えられるかと思います。イエスの目から見ると、み言葉は天地が滅び行くまで絶対に揺るがない、信頼できるものだ。だから、イエスのよると、聖書は信じ、従うものだ、ご自分にとっても、ほかの人にとっても。イエスが私たちに示してくださるのは、み言葉は真実で信頼できるからこそ、私たちと大いに関係があるということです。数箇所では、イエスが他の人にも聖書を読み、信じることを期待していたと明らかにします。そして、イエスは聖書が特別にご自分を中心にしていると見ているようです(ルカ4章と24章、ヨハネ5章など)。ある時、パリサイ派の人々に、命は聖書にあるのではなく、イエスにあると明確に言いました。私たちも、命を得るため、イエスにいかなければならない。
私はイエスの御言葉への理解の仕方を見て、多いに動機づけられます。今日この箇所を読み、地上のイエスがしたように、自分も改めて御言葉を重んじ、読み、黙想し、従い、他の人に伝えるように動機付けられるように。
イエスは聖書が真実で私たちに話しかけてくれていると理解した
アダムとエバ (創世記2)
-> 神様の結婚の最初の目的:男性一人、女性一人、一生(マタイ19:4-6)
アベルが殺されたこと(創世記4)
-> パリサイ人達の罪深さについて (マタイ 23:35)
ノアと洪水 (創世記 6-9)
-> イエスの再臨が急激に来ることついて、そして、イエスの再臨の瞬間にイエスに属していない人々は急激に滅びることについて(マタイ 24; ルカ 17)
ロト、その妻とソドムの滅び(創世記 19)
-> イエスの再臨が急激に来ることついて、そして、イエスの再臨の瞬間にイエスに属していない人々は急激に滅びることについて(ルカ 17:28-32)
アブラハム、イサク、ヤコブ (創世記)
-> 死からの復活について (マタイ 22:32)
モーセ (出エジプトなど)
-> モーセはイエスについて書いたから、人はモーセを信じればイエスも信じるはずだ (ヨハネ5 など)
さおの上にあげられた蛇 (民数記 21)
-> イエスの死の予言とイエスへの信仰による救いについて(ヨハネ 3)
マナ (出エジプト16)
-> 本当のマナはイエスだとイエスは教えました (ヨハネ 6)
エリヤ、ダニエル、いざや、など
イエスはみ言葉を暗記しました
イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。 父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。(マタイ19:17-19)
「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。(マタイ 22:36-40)
パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにお尋ねになった、「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。 イエスは言われた、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。 すなわち『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」。 イエスにひと言でも答えうる者は、なかったし、その日からもはや、進んでイエスに質問する者も、いなくなった。(マタイ22:41-46 )
イエスはみ言葉でサタンの誘惑と戦いました.
イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。 (マタイ4章;ルカ4章)
イエスはご自分の発言や行動の理由として、よく聖書の箇所をあげました。
あなたがたの律法には、ふたりによる証言は真実だと、書いてある。 わたし自身のことをあかしするのは、わたしであるし、わたしをつかわされた父も、わたしのことをあかしして下さるのである」。 (ヨハネ 8:17-18)
偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、 『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。 (マタイ 15:7-9)
(イエスのパリサイ派の人々に対する裁きの言葉は旧約聖書に基づいているとイエスは言いました)
わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしは、その人々を終りの日によみがえらせるであろう。預言者の書に、『彼らはみな神に教えられるであろう』と書いてある。父から聞いて学んだ者は、みなわたしに来るのである。(ヨハネ6:44-45)
(イエスはまた、ご自分の物事への見方は聖書に基づいているのだと言っています。この場合、イエスは人はなぜご自分を信じないかを説明しています。)
そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。(マタイ 21:13; マルコ 11:17; ルカ 19:46)
(イエスは人が神の神殿を市場にしたことを攻めた。イエスの理由はまた、み言葉でした。み言葉によると神殿は祈りの家だと書いてあるから)
そこでユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた。するとイエスは彼らに答えられた、「わたしは、父による多くのよいわざを、あなたがたに示した。その中のどのわざのために、わたしを石で打ち殺そうとするのか」。ユダヤ人たちは答えた、「あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としているからである」。イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない) 父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。 (ヨハネ10:31-36)
イエスは他の人が聖書の言葉を成就すると教えた
(イエスによると、イザヤがバプテスマのヨハネについて予言した)
見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。(マタイ11:10; ルカ 7:27)
(イエスによると、イザヤがイエスの周りの群集は信じないと予言した)
だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。(マタイ13:13-15)
(また、イエスによると、イエスの周りのユダヤ人の表面的な宗教についてもイザヤが予言した)
イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。(マルコ 7:6)
(イエスによると、聖書がユダの裏切ることと滅びることを予言しました)
わたしが彼らと一緒にいた間は、あなたからいただいた御名によって彼らを守り、また保護してまいりました。彼らのうち、だれも滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました。それは聖書が成就するためでした。 (ヨハネ 17:12)
イエスはみ言葉が特にご自分を指していると理解し、教えました。
それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。 イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。(ルカ4:16-21)
あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。(ヨハネ 5:39-40)
そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。(ルカ 24:25-27)
しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司は言った、「あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ」。イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。(マタイ 26:63-64 )
(ここでイエスは、メシヤについてのダニエル章の箇所の言葉を利用して、ご自分を指しています)
イエスの目から見ると、ご自分の苦しみや死についての予言も、運命と同時に使命として受け取った。イエスはその避けられない、だれも留めることのできない運命を同時に受け入れ、心から成し遂げようとする使命として受け止めた。イエスのそういうみ言葉に対する姿勢、そのみ言葉をおっしゃった神様に対する姿勢は、どれほどすばらしい模範でしょう。
たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。(マタイ 26:24; マルコ 14:21)
あなたがた全部の者について、こう言っているのではない。わたしは自分が選んだ人たちを知っている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしにむかってそのかかとをあげた』とある聖書は成就されなければならない。(ヨハネ 13:18)
それは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と書いてある彼らの律法の言葉が成就するためである。(ヨハネ15:25)
あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。 (ルカ 22:37)
そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。(マタイ 26:31; マルコ 14:27)
イエスは言われた、「確かに、エリヤが先にきて、万事を元どおりに改める。しかし、人の子について、彼が多くの苦しみを受け、かつ恥ずかしめられると、書いてあるのはなぜか。しかしあなたがたに言っておく、エリヤはすでにきたのだ。そして彼について書いてあるように、人々は自分かってに彼をあしらった」。 (マルコ 9:12-13)
そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。(マタイ 26:52-54)
そのとき、イエスは群衆に言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。 (マタイ 26:55-56; マルコ 14:48-49)
イエスは他の人もみ言葉を読み、理解し、信じ、従うはずだというふうに語っていました。
そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。 (マタイ 12:3; ルカ 6:3; マルコ 2:25)
また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。(マタイ 12:5)
イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、(マタイ 19:4)
イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。 (マタイ 21:16)
イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。(マタイ 21:42; マルコ 12:10)
死人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。 (マルコ 12:26)
そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。 (ルカ 24:25-27)
それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。 (ルカ 24:44-47)
自分の人生への持ち帰り
1. 今日読んだイエスの言葉からどのような印象を受けましたか。
例えば、イエスの御言葉の理解のしかたを読んで、驚くことや同意しにくいことがありましたか。また、慰められたこと、励まされたこと、動機付けられたことがありましたか。
2. 友達の一人があなたに次の質問をするとします。「イエスは聖書をどのようにして理解されたと思いますか」。あなたはどう答えますか。
3. イエスの模範はあなたの御言葉に対する見方にどのような影響を与えますか。